ごく普通のお店を、エベレストを描くくらいの勢いで描いている
ーー独特の世界観が魅力の『孤独のグルメ』ですが、まずはその誕生のきっかけを教えてください。
谷口:『PANJA』(『SPA!』の兄弟誌。現在は休刊)という雑誌で連載を始めたいと編集者が押しかけて来て(笑)。久住さんの原作でハードボイルドグルメをやりたいということでした。自分にはハードボイルドグルメがいったいどんなものか想像できなかったし、久住さんは泉さん(晴紀氏。久住氏と泉昌之名義でユニット)と共作して『かっこいいスキヤキ』(不条理グルメ漫画の名作)を書いていたから、「私じゃなくていいんじゃないか」と一度は断ったんですよ。
ーーそれでも最終的に引き受けたのは?
谷口:押し切られた格好ですね(笑)。「谷口さんの好きなように描いてくれ」と言われて1話目のシナリオをもらったんだけれど、正直、主軸として描くのは食べ物なのか、行動なのか、わからなかった。
ーー試行錯誤の船出ですね。
谷口:手探りで始めました。やっているうちに料理をただおいしそうに描くだけではダメだと。おいしさを伝えるためにはキャラクターの動きや表情で表現しなくてはいけないとわかってきました。とにかく、食べるシーンをリアルに描こうということで、3話目あたりから見えてきた。
ーー何がきっかけだったんですか?
谷口:豆かんを食べたときの五郎の表情が上手く描けて、これかなって思いました。とはいえ、今でもずっと迷いつつやっていますよ。しかも、だんだん描き込みが凄くなっちゃって……。『孤独のグルメ』は1話8ページだけど、24ページくらい描くのと同じくらい時間がかかる。あまりにも大変なので、途中で「辞めさせてください」って言ったこともあったくらい(笑)。
ーー店の絵が緻密なので、ファンがモデルになった店を探しやすいそうです。
谷口:資料用に店までの道のりから店内までを担当編集者に撮影してもらっています。特に店内はどこに誰が座って、どういう位置関係になっているのか、描くときに重要になりますから念入りにお願いしています。セリフの乗せ方でも、順番に目線が行く場所というのがあって、誰が誰と喋っているのかとか、細かいところで苦労しています。
ーー孤独のグルメが長く読まれるのは、谷口さんが緻密に描くからだとも言われますし、谷口作品の『神々の山嶺』(原作・夢枕獏の冒険小説)の山の絵に圧倒されるように、普通の定食屋でも、同じような迫力を感じる読者が多いようです。
谷口:そう言ってもらえると、すごく嬉しいですよね。ごく普通のお店を、エベレストを描くくらいの勢いで描いているかもしれない(笑)。とにかく、臨場感を味わってもらいたいから、ついつい描き込んでしまいます。時には“抜いて”読みやすくすることも手法としてはあるけれど、『孤独のグルメ』の場合はじっくり、1コマ1コマを味わいながら読んでもらいたい。
ーーこの作品は、谷口さんにとって、いろいろとチャレンジした作品でしょうか?
谷口:これまで描いたことのないテーマだったから、実験してみたいと思ったし、「マンガはこうだ」という固定観念で描きたくなかった。食べる表情ひとつ描くにしても、マンガは眉毛と口と目くらいしか動かせないから、それをどう変化させるのか、と。限界の中での試行錯誤が、楽しくもあり、苦しくもありましたね。『孤独のグルメ』は、食べるだけの話でそこに物語があるからこそ、食べるシーンを誤魔化すことはできません。だから、どうしてもそこは力の入る作業になりますね。
ーーその苦労がしっかりと伝わっているからこそ、おいしく見えるんでしょうね。
谷口:そうだといいですけどね。でも、これだけ反響があって、ここまで続くとは正直、思っていませんでした。「この作品、どこが面白いんだ?」って、僕ですら最初は思ったくらいですから(笑)。
ーー約18年の時を経て2巻が発売されましたが、特に思い出深い回はありますか?
谷口:第12話ですかね。孤独のグルメの連載を始めてもしばらくは久住さんに会ったことがなくて、初めて会ったのが実は武道館だった(笑)。お互いが格闘技好きだったので、一緒にヒクソン・グレイシーの試合を観戦した後に飲んでいて、五郎が横暴な店主にアームロックをするアイデアが生まれました。まったく予定になかったけれど、あれは面白かったですね。
ーー2巻には、谷口さんの故郷である鳥取市役所内の食堂のスラーメンが取り上げられた回も収録されています。
谷口:私の原画展が鳥取で開催されることになったけれど、行けなくなったので久住さんに代わりに行ってもらった。せっかく鳥取に行くからと、取材してくれました。スラーメンは思い出の味なんですよ。高校生の頃、学校近くの定食屋でよく食べたものです。当時は安くておいしいと思ったけれど、大人になってから食べたらそこまででもなかった(笑)。
ーー鳥取砂丘のコマも印象的ですが、故郷を題材にした作品は多いのでしょうか?
谷口:『父の暦』や『遥かな町へ』のほか、短編でも何作か描いています。やっぱり、描きやすいんですよね。自分の子供のときの体験を入れられるので、物語をゼロから作らなくていい。砂丘は上手く描けたと思います。特に最後の1コマの砂丘に父子が佇んでいるシーンはいい絵が描けました。
ーードラマ版は、ご覧になりますか?
谷口:観ていますよ。最初はどうなるんだろうってハラハラしながら観ていましたが、ヘタするとマンガより面白いんじゃないかと(笑)。松重さんが五郎を演じてくれて正解だと思いましたね。食べているシーンでの演技がオーバーアクションになり過ぎず、それでいて本当においしそうに食べる。演出も上手いと思いますね。
ーーシーズン4登場のみゆき食堂が馴染みの店だったそうですが?
谷口:本当に偶然で。「え? 何故、ここ?」って。清瀬には30代半ばから長く住んで、駅前のアパートを借りて仕事場にしていたんです。みゆき食堂には最低でも週1回は行っていました。当時からメニューがとにかく豊富で選ぶのに苦労したけど、ニラ玉にご飯とみそ汁をよく頼みましたね。店内の作りが当時のままだったことに驚きましたが、当時よりメニューが増えていたことにもっと驚いた(笑)。昼間から飲む人が多いのも変わってないし、「よくぞ、みゆき食堂を選んでくれた!」と。思わぬところで楽しませてもらっています。
ーー1コマ1コマ、心血を注いで描かれていることが読者にもよく伝わったと思うのですが、18年ぶりの第2巻が発売されたということで新作への期待も膨らみます。今後について教えてください。
谷口:思い返してみると、短いページの中に物語の全てを詰め込まなきゃいけないですから、もの凄くパワーが要求されますね。だから、作業を始める前はけっこう憂鬱になるんですよ。「またあの作業が始まるのか」って(笑)。描き始めてしまえば、キャラクターをどう動かすのか考えたり、楽しみもあるんですけれど、その前の演出やコマ割りを考える段階はとても難しいし、疲れます。覚悟してやらないと描けないから、休憩を入れつつ、という感じで充電しながら、ゆっくりやっていければいいかなって思っています。
【谷口ジロー氏】
'47年、鳥取県出身。『餓狼伝』や『神々の山嶺』(共に夢枕獏原作)のような硬派なものから、ヨーロッパでも高い評価を受ける『歩くひと』、『遥かな町へ』のような叙情溢れる作品まで幅広いテーマを手掛ける。2017年2月11日、多臓器不全により死去。享年69。
※「『孤独のグルメ』 巡礼ガイド2」 より